闇に響く銃声 3

 昇った陽が、また西へ去った。
 夜の帳は、今日も音を立てずに降りてくる。
 軍隊の屯営地から程近い森の中、夜は無人となるはずのその場所に、パチパチという炎の爆ぜる音が響いていた。
 湿った土の上に座り込んだ男の口から、呻きとも呪詛ともつかぬ言葉が延々と吐き出される。
「ドウシテ・・・・ドウシテ・・・・ドウシテ・・・・」
 赤い光にかざした、軍の支給品のナイフには、べっとりと何かがこびり付いていた。
 黒ずんで固形化したぞれは、人間の血液。男の視線は、食い入るようにソレを見つめている。
 勿論だが――彼の血液ではない。
 不自然なくらいに見開いた目が、ゆっくりとナイフから逸れた。顔、いや、躰全体を無理矢理に捻るようにして、男は視線を移動させる。
 枯れたのも生木もごちゃごちゃにくべられた小枝の焚き火を挟む位置に、小柄な人型が蹲っている。
 軽く波打つ長い髪が、閉じた瞼に掛かっている。爆ぜる炎が絶えず顔に深い陰翳を映し出した。
 どんなに心許ない光源でも確認できる――女性である。
 実を言えば、男は自分の置かれた状況を正しく把握しているとは言えなかった。極度の緊張と興奮の為に、朝からの記憶は途切れ途切れでしかない。
 覚えているのは――左腕を血塗れにした女性を引きずって、森の中を掻き分けるように進んでいた。どういういきさつでこのような状態に陥ったのかという部分は、どこを探してもものの見事に欠落している。
 自分の右手に握り締められていた、血のこびり付いたナイフから考えるに――これで刺したには違いないのだろう。
 焚き火からは白く濁った煙が間断なく立ち昇っている。風に煽られて右に左にと靡く煙に燻されたのか、木の上に居たらしい鳥が不満げに一声啼いた。
「おい・・・・、おい・・・・」
 不安に駆られた男は、とりあえず声を掛けてみる。
 女性の左腕は流れ出した血液で真っ赤に染まっている。焚き火の光源では殆ど茶にしか見えないが。
 傷口は二の腕あたりだろうか。傷の深さはどれくらいなのだろうか。情けないが、男には皆目見当もつかない。ぐったりしたまま動かない女性に新たな不安をかきたてられた男は、、膝立ちで焚き火をまわり、女性の肩を数度揺さぶった。大量の出血で死んでいたりしたらどうすればいい――。
 その不安はだが、女性がバネ仕掛けのように唐突に躰を起こし、男から少しでも離れようとしたことですぐさま解消された。
「怪我は・・・・大丈夫か?」
 加害者が心配するようなことではないのかもしれないが、男は僅かに眉根を寄せて問うた。
 女性が、ゆっくりと男の方に向き直る。その瞳は、怯えと同時にはっきりとした怒りを宿して輝いていた。紫に変色した唇は、何があっても喋るものかと言うように、固く固く引き結ばれている。顔色は、夜目にも蒼白だった。
「別に、悪気があった訳じゃないんだ。第一、俺自身何が何だかよく分かっていないし・・・・」
 女性の、あまりにもきつい視線にたじろぎながら、言葉を紡ぐ。
「だから・・・・、その――」 
 言いかけて、男は結局唇を噤んだ。女性の瞳が雄弁に叫んでいるではないか。何一つ聞く耳など持つものか、と。
 風が吹き降りてきて、炎を見えない手が押しつぶす。 抗う火勢が裂かれ、影が不気味に踊り狂った。
 男は諦めて視線を逸らした。
 何故、この女性を連れているのか、その部分の記憶を無理矢理掘り返してみる。
 出遭ったのは何処だったか――。
 それすら思い出せない男は、結局考えることを放棄するほうを選んだ。
 ただ――。
 彼女を連れて歩いたところで自分の有利にはならないことは、考えるまでもなく分かっている。只でさえか弱い女性である上に、大量の出血を伴った怪我まで負っている。足手纏いになるのは火を見るより明らかだ。
 炎を見つめて、男は眉根を寄せた。いっそ――。
 枯れ枝が赤く弾ける音に、は、と男は顔を上げた。
 額から気持ちの悪い汗が一気に滲み出る。
 いっそ――殺してしまえば。
 一瞬、はっきりとした殺意が胸を満たしていた。
「何を・・・・考えているんだ、俺は」
 男は赤い火に染まる己の手を凝視した。何故、殺意など抱かなければならないのだ。軍隊の中にいた頃には、一度たりとも浮かんでは来なかった。否、殺意、殺人、それが当たり前のあの場所が厭になって逃げ出したはずなのに。
 男は数度咳込んだ。昂ぶった感情を持て余して、呼吸が浅く速くなる。
 新たな火種をくべ忘れた焚き火が、次第に光と勢いをなくしていく。
 夜明けまで後どれくらいだろうか。男は視線を仰向けた。薄い煙の紗の向こうで、赤い星が瞬いている。
「もう少し――だな」
 星座の位置から判ずるに、真夜中から夜明けまでの間であるらしい。太陽が顔を覗かせるまで、どんなに長くとも五時間といった程度か。
 朝になったらとにかく、この場所から動く必要がある。新しい枯れ枝を投げ入れながら、男は下唇をかんだ。どうにも目立つ軍服は何処かで処分して、出来れば国外に出たい。
 再び、静かにしている女性に視線を送る。
 どうしようか――。殆ど邪魔な荷物を扱う程度に、男は考えて見た。
 放っておいたら、勝手にしてくれるだろう。動けないほどではなさそうだし、迷うほど森は深くない。陽が昇れば、何とかなるだろう。
 一刻も速く、この場所から立ち去りたかった。自分が傷つけた存在が、不快で仕方がない。もう少し時間が経ったら、森を抜けてしまおう。
 残り数本になった枯れ枝の一本を、男は無造作に掴み、折った。少し湿っていたのか、枝は力に逆らわずぐにゃりと曲がった。
 けれど、男の耳は、細木が過負荷に耐え兼ねてあげる悲鳴を聞きとっていた。
 微かな音だった。だが、重要なのは、それが聞こえたか否かであって、音の大小ではない。
 枯枝を踏みしめる音がしたのは、間違いなかった。誰かがいる。それも、複数だ。
 反射的に、男は腰を浮かせていた。中腰のまま、右手が腰の銃に伸びる。一番身近な木の陰まで移動し、幹に背中を向ける。
 右手は、無意識のうちに軍隊で叩き込まれた動きを再現していた。引き抜いた拳銃の安全装置を解除し、撃鉄を起こす――。一連の動きは、彼が軍隊の中でやったどれよりも、流れるようで無駄がなかった。
 左手は前に傾けた躰を支えるように、そっと黒い土壌に触れる。
 只――目印になるであろう炎を消すかどうかの判断は、咄嗟に下すことが出来なかった。目が灯りに慣らされている以上、突然訪れる暗闇の中では、どうしても動きが制限されてしまう。男は結局、消火の為に掴んでいた黒土を指の間から滑り落とした。
 先の音が、自分を探している者のものなら、居場所はとうに知られているはずだ。
 幹に背を押し付けるようにしながら、男は口端を吊り上げた。不注意にも枯枝を踏み折ってしまったものは、後でこっぴどく上官に絞られることだろう。
 はっきりとした足音が聞こえてきた。
 女性もそれに気付いたらしく、強張った躰をそっと起こすのが見えた。
 男の意に反して、近づいてくる足音は一つだけだった。自らの存在を隠そうともせず、一直線に向かってくる。男の喉仏が僅かに上下した。
「ヨォ」
 木々の向こう、焚き火の輪が辛うじて届かない辺りから、冗談のように軽い声が投げかけられた。
「久しぶり・・・・って言うにゃ、まだちょいと早すぎるよなぁ」
 人影が一歩、輪の中に進んだ。男は自分の同僚を呆けたように見つめた。固く握り締めていた指先からも力が抜け、掲げた銃口が揺らぐ。
「何やってんだヨ、お前? 隊じゃ首傾げてンだぞ。お前、昨日からちょっと様子がおかしかったけどな、まさかなぁ、びっくりしたぞ」
「それで・・・・、お前が来たのか」
 問いかけというより、独白に近い言葉を男は呟いた。話は全くかみあっていない。
「わっからねぇなァ。何があったんだ? 一回くらいの可愛い無断外泊ならまぁ、多目に見て貰えるだろうに、どう血迷ったら、民間人刺しちまうかなぁ」
 言葉につられて、男は自分が傷つけた女性を見遣った。いつの間に現われたのか、若い兵士が手際良く腕に止血を施していた。見れば、後二人、落ち着かない表情で立っている。
「俺にも・・・・分からないんだ。気付いたらこうだった」
「なッさけない奴だな。お偉いさん方が慌てふためいてるぞ。いいか、戻るまでに説得力のある言い訳考えておけよ。とりあえず、減俸と降格は間違いねぇだろうけどな」
 同僚は、男が軍隊を脱走したなどとは微塵も思っていない口ぶりであった。確かに、脱走を図る理由など、考えも及ばないだろうが。
 なるほど――男は心の中で呟いた。確信をこめて唇を動かす。
「そうやって油断させておいて、殺すつもりか」
「――はァ?」
「同僚のお前なら、安心すると思ったんだろう?」
「お前、本ッ当に頭、大丈夫か?」
 理解しかねる、という思いを、同僚は躰全体で示した。
 処刑を見学したものの中に脱走者が出るのは、毎回のことだった。適当に落ち着いたところで説得し、連れ戻すのは、今回に限った処置ではない。民間人に負傷者を出したのは――流石に予定外の出来事ではあったが。
「絶対に戻るもんか・・・・! 俺は人殺しになりたくないんだ」
「何言ってんだよ、冗談にしちゃ、笑えねぇぞ」
 同僚は、唇を歪めた。彼はまだ、男の目が焦点を失ったように虚ろなのも、普段の少し気弱過ぎる性格からは似つかないほど狂暴な光を湛えているのにも気付いていなかった。
「血迷って民間人にケガさせたのはお前だろうが。人殺し? 今の世の中、どう転んだって戦争なんか起きやしねぇぞ。俺達が誰かを殺すことなんか、万が一にもないだろうぜ」
 男は、手当ての済んだ女性を見た。
 傷つけたのは、確かに彼自身。だから――殺されるのだ!
 同僚の言うとおり、戦争など起きるとは思わない。今、どうしても軍に人数を集めておかなければならないというわけではない。ならば、無闇に民間人に危害を加えるような軍人など、軍にとって目障りなものでしかないはずだ。
 昨日の――そう、あれはまだ、昨日の事なのだ――血みどろの屍体が脳裏に浮かぶ。
「いい加減、頭冷やそうぜ? なぁ・・・・ッ?」 
 同僚は、軽い笑いを浮かべたはずの己の唇が、半ばで動かなくなるのを自覚した。
 男が両腕を胸の前まで持ち上げている。同僚はそれをはっきりととらえたが、理解には結びつかなかった。男の手の中の黒いモノが何であるかを知覚する一瞬前に、毎日のように聞きなれた破裂音と、耳慣れない絶叫が響き渡った。
 カン! 飛び出した薬莢が木の幹にぶつかる。二度、三度。
「お前――」
 同僚は、軋みを上げる首を無理矢理捻って視線を動かした。所在無く背後に控えていたはずの若い兵士が三人、倒れている。
 つん、と、火薬の匂いが風に漂った。
 暗くて、出血の有無は確認できなかった。けれど、身じろぎ一つ、呻き声一つないのは、すでに息絶えている証拠であろう。胸か頭を一発ずつ、撃ちぬかれたに違いない。
 だが・・・・、と彼は思う。思いつつ犯人へと視線を戻した。
 こいつは、こんなに腕が良かっただろうか。
「冗談じゃない・・・・ぜ?」
 笑いかけようとして、彼は失敗した。同僚・友人だったはずの男が、自分に対して明らかな殺意を向けてくるのに気付いたからだ。
「おい、よせよ! 何考えてんだよ、落ち着けって!」
 無意識に一歩、後退る。小枝が踏まれて、パキ、と鳴った。
「俺は、戻らない。死にたくないんだ・・・・死んでたまるか!」
 男の声は低く篭もって聞き取りにくかった。けれど、言葉そのもの以上に、絞り出される声が狂気を示している。同僚は、自分の言葉が全く届いていないことを知った。
「わ、わかった! だから落ち着け! な、な? 今のこと、見なかったことにしてやるよ。こいつら三人には悪いけどな、俺が何とか誤魔化してやるから。お前が結局見つからなかったってことにして・・・・。もう、無理に戻って来いなんていわねぇよ」
 両手を顔の前で広げて見せ、敵意のないことを示す。
「お前が好きなように、何処へでも逃げちまえないいからさ。だから――だからよぉ、その、物騒なモン仕舞ってくれよ」
 両手は、顔の前から頭上に移動した。男の握る銃口は、そんな動きにいちいち反応し、ぴくぴく小刻みに震えた。
「おい、下ろせって。頼むから。な? 俺が何とかしてやるって。五年もつるんだ友達じゃねぇか」
 殺されてはたまらないという思いが、そのまま言葉になって飛び出してくる。それが相手に伝わらなければ生命はない。必死である。
 男の腕が、迷うようにゆらゆら揺れる。視線は、相手の言葉の真意を探るべく、まっすぐ同僚の視線を絡め取っっていた。
 同僚も顔を笑みの形に歪ませたまま――動物にとって、相手に敵意のないことを示し、相手の攻撃意欲を殺ぐ表情が、『笑み』なのだという――命綱とばかりに視線を受け止める。
「なぁ・・・・?」
 駄目押しとばかりに、同僚の声が響いた。
 男の腕が下がっていき、数秒後、銃口は完全に地面に向けられた。
 同僚は、男の指先に神経を集中させた。銃爪にはまだ、指が掛けられている。彼は、男の指から力だがける瞬間だけを待った。
 うわべでは白旗を振ったが、本当にそうするつもりは毛頭なかった。
 黙っていてやる――? 無理な話だ。
 三人、殺された。それをどうやって隠せというのだ。
 上官から男を連れ戻してくるように命じられた時は、勿論こんなことになるとは思っていなかった。油断があった。いや、簡単な任務だと思っていた。だから、彼が連れてきた若い三人には、実戦で行動できるような技量はなかった。一人で行くのは格好がつかないから――それだけで選んだのだ。
 このまま帰れば、責任を追及されることは間違いない。任務の不遂行。状況判断の不手際。
 それこそ冗談ではなかった。こんなことで経歴に汚点をつけるわけにはいかない。
 だから。
 男には、死んでもらう。
 完全な戦意喪失を装いながらも、彼は男の一挙一動に全神経を集中させた。少しずつ少しずつ、右手を腰の拳銃に伸ばしながら。
 拳銃の腕には自信があった。少なくとも、目の前の男よりは。いつもぎくしゃく、油の切れたブリキ人形のような動きをするような奴に、一瞬の勝負で負けるとは思えなかった。
 男の左手が、震えながら拳銃から離れた。
 同僚は、自分の喉が上下に動くのを厭にはっきりと意識した。飲み込むべき唾液は存在せず、喉の奥が痛む。
 あと――少し。
 男の血の気のない指と、銃爪との隙間が広がっていく。
 一拍おいて、同僚の躰が動いた。否、我慢できず動いてしまったというべきか。
 もう少し待つべきだった。男の手から、完全に拳銃が離れてしまうまで。
 普通の――軍隊での訓練時と同じ状況であれば、死んでいたのは間違いなく男のほうだっただろう。
 だが男の躰は、意識よりも先に危険を察して反応していた。
 銃声、三発。
 その全てが、男の銃から飛び出したものだった。
「ち・・・・」
 瞳を驚きに見開いた同僚は、自らの死を悟った瞬間、全身を憎悪の色に染めた。
 だが、唇は雑言を吐く力を残さず、畜生、という最期の言葉は空気を震わせることもなかった。
 左足の付け根。腹部。左胸。三箇所に被弾した躰は、びくりと跳ねて動かなくなった。
「・…は――」
 男の唇からと息が零れる。
 発砲の反動で、躰が幹に撃ちつけられていた。そのままの格好で、男は虚ろに笑った。
「は・・・・っははは――はははははは」
 力が入らない。大事に抱いていた何かは、銃声とともに砕け散った。
 男は失念していた。この場に残る生存者が、彼だけではないことを。
 憎悪と、恐怖と、生きることに執着するもう一人の人間がいることを。
 女性が、使われないまま地面に放り出された銃に手を伸ばした。



 銃声――ニ発。


 幾度目かの騒音に安眠を妨害された鳥達が、けたたましく不平を零しつつまだ明けぬ空へと飛び立っていった。


                       了

←2  Index