闇に響く銃声 1

ザリザリと、靴が砂を蹴る音が響く。静まり返った空間に、それだけが延々と続く。
 炎天下の日差しの下一時間近く立ち続けていた男の耳には、それが、うわんうわんと反響して聞こえた。一体幾人の足音なのか、その音源が目の前を歩いているにも関わらず、男には判別がつかなかった。瞼は開いているが、焦点はとっくの昔に合わなくなっている。
「おい」
 いきなり、腕を掴まれた。
 顔面に昇っていた血が、一気に爪先目掛けて落ちていくような気持ちの悪い感触に、吐き気がこみ上げる。
 可動域を上回るほどの力で斜め後ろに引っ張られた肩の骨が、耳の奥できしんだ音を上げた。遅れて認識した痛みは鈍いものだったが、その刺激が切れかけていた意識を危うく繋ぎとめてくれる。間断なく思考に入り込んできていた虫の羽音のような耳鳴りが、僅かに遠のいた。
「今更倒れたりするなよ。折角久々のショーを見物出来るチャンスなんだ。見逃すと後々後悔するぞ」
 膜を張ったように音を拾うことを拒絶しかけていた聴覚が、それでも何とか声を言葉として捉えてくれる。
 外部刺激を与えられたためか、男の感覚がゆっくりと回復していく。自分の躰が斜めに傾いでいることに初めて気づいた。
 貧血を起こしかけた躰を無理矢理踏ん張って、男は漸く顔を上げた。視界全体がぼんやりと霞みがかっている。焦点を合わせた先にあったのは、男の上官の顔だった。危うく倒れかかったのを支えてくれたらしい。
「すみませんでした」
 殆ど反射的に答えた男の声は、不明瞭で掠れていた。喉に水分が無くなっている所為だろうか。だが、声を出したことで確実に躰は現実世界に引き戻されていった。
 気が弛んでいる、と、いつもなら罵倒の一つ飛んでくる状況だ。男は項垂れた。だが、上官は男の肩を叩き一つ頷いただけで歩き去った。
「おい、そろそろだぜ」
 隣に立つ同僚が、声を掛けてきた。未だ貧血が治まっていない男は緩慢な動きで首を回し、同僚の肩の辺りをぼんやり眺める。自分と同じ、灰色がかった濃い緑色の軍服だ。
「お前、大丈夫かよ? 顔色悪ィぜ? こんなショー滅多にないんだから、見逃すなんて勿体ないことするんじゃないぞ」
 同僚の声は、十日に一度の休日の前日よりも浮かれている気がした。男は、一体何事かと回らない頭で考える。
 ショーとは何だったろうか、内心首を傾げつつ男は視線を巡らせた。貧血を起こしたことで、男は自分が何のために今ここにいるのか、それすら忘れかけていた。
 視線を向けた先に壁と――何が付着しているのか、どす黒く汚れた壁と――その前に鎖でつなぎ止められた五人の人間が見えた。
「あぁ――」
 男は漸く合点がいったというように、小さく声を漏らした。
 そう――。ここは、軍の駐屯地の中にある、処刑場だ。
 壁に繋がれた五人の男は――男だと思ったのだが違うかもしれない。ぼさぼさの髪は肩につく程長いし、目隠しをされた顔は口元しか判らない。服はぼろぼろの布きれも同然で、体格を完全に覆い隠している――これから処刑される死刑囚だ。
「あいつらは何をやったんだ?」
 男は同僚の袖を引いた。罪状の説明はとっくにされたはずだが、軽い日射病になりかけていたくらいだから、その辺りの記憶はまるきり飛んでしまっている。
「クスリでもやってたのか、それとも備品の横流しか?」
「馬鹿ァ言え」
 振り向いた同僚の顎先から汗の雫が滴った。暑い。
「そんな――クスリやったくらいで死刑になるわきゃねぇだろ」
 確かに――そう言われてみればその通りである。備品の横流しも、死刑判決が下るほど重い罪とは思えない。
「じゃあ、何を?」
「スパイ――って言ったらどうする?」
「まさか」
 男はからかわれているのかと眉宇を顰めた。
「あいつらは、まだ十代じゃないのか。まさかそんな、スパイだとは――」
「見えないだろ? けどな、お前がぼぅっとしてる間の発表じゃ、確かにそう言ってたぜ」
 男は、死刑囚にもう一度視線を向けた。やはり、性別はおろか表情さえもさっぱり読みとれはしなかった。
「ここを甘く見て入ってくる奴らは少なくないからな。巧くすりゃ一稼ぎで一生遊んで暮らせる金が手に入る。まぁ、巧くすれば、の話であって、そう簡単日にコトが運ぶわきゃないぜ。ここに入って三日も経ちゃあ、そんくらい悟ると思うけどな」
 同僚は目を眇めて呟き、微笑った。
 この国では兵役が義務として課せられている。十代最後の二年と二十代最初の三年、国中の健康な男子は徴兵され、強制的に軍事訓練を受けさせられる。懲役を逃れようとするものも少なくないが、莫大な金を積んでも巧く行くケースは稀だという。
 逆に、軍に入ることで収入を得ようと目論む者も少なくないらしい。
 武器の横流しや、密売。麻薬の売買。確かに、軍とは往々にして、非日常的なものが比較的身近にあるところではある。
 どこから入手するのか、どこへさばくのか、その辺りのことは男には全く知りようもない世界なのだが、巧くいけば莫大な金が手に入るらしいことだけは聞き及んでいる。 
 その中でも最も高額な報酬を得られる仕事というのが――スパイであるらしい。
 軍の駐屯地の正確な位置、保有する武器弾薬数、所属している兵士の数や質――そういった情報はやはり、軍事的には価値のあるものなのだろう。
 買うのはどこの国なのか組織なのか――いずれにしてもずぶの素人ではまず、買い手に渡りをつけることも不可能だ。だから、そういったことに手を染める者達は、軍の徴兵を受ける前からそちらの世界の住人なのだろうと、男は考えている。
 だが、この軍という組織は外から見るほど甘いものではない。厳しい規律に雁字搦めにされ、ちょっとした犯罪もはびこる隙はないのだ。
 盗みや何やらの犯罪が見つかれば、即刻懲罰つきの独房行きが決定する。外界の法律とはまた違った独自の軍法では、体罰が許可されている。特に――スパイ容疑が掛けられた場合、ほとんど釈明も出来ぬままに死刑が宣告される。自白を強要するための拷問も、きちんと認可された手段である。
 軍といえば諸悪の巣窟といった印象があるが、噂と現実はえてして違うものだと悟るのにそう大した時間は必要ない。
 だから――今壁際に繋がれて刑の執行を待っている五人は、生命と引き替えにしても大金を欲したか、それとも本当に軍の恐ろしさを理解しなかった大馬鹿ものか、いずれかであろう。
「今回は、どうも――巧くいきかけたって話だぜ。ほら、左端の女、ありゃぁ、自分の上官誑し込んで情報聞き出す役目だったらしい。その隣のヤツは外との連絡役。十日に一度の休みを巧く使ったみたいだ」
 男は、項垂れたまま動かない死刑囚達に視線を送った。左端の人間に注意してみたが、やはり――男か女か判別出来なかった。
「ならこれは――見せしめのための公開処刑なのか?」
「そういうことになるんだろうな。何しろ、危うく上層部が出し抜かれそうになったんだ。外で糸引いてた奴等にもとっくに手は回ってるんだろうが、この先こういうことを考える厄介な奴らに対しちゃ、何よりの警告だろう」
 そう考えてみれば――クスリで誰それが独房行きになったという話はちょくちょく耳にする。反対に、死刑宣告の話は男が入隊して以来一度も聞いたことはない。やはり、稀なケースではあるに違いない。
「そろそろみたいだぜ」
 同僚に小突かれて、男は視線を巡らせた。
 なるほど、建物の方から一団が向かってくる。遠くて判別しづらいが、その軍服の意匠から判断するに、先頭は滅多にお目にかかることのないこの駐屯地の長官のようだ。後ろに続くのは銃を担いだ兵士達である。号令がかかり、男は慌てて敬礼の姿勢をとった。 
 一団は死刑囚に相対すると、長官を除いて不動の姿勢になった。長官はそのまま歩いて、準備されていた幹部席へ行き、一番前に座った。
 銃を背負った兵士のうち右端の男が、何やら紙を見ながら声を張り上げている。おそらくは罪状と人物の最終確認をしているのだろうが、距離が離れすぎていて全く聞き取れなかった。
 死刑囚は、全く反応を返そうとしない。それが彼らの意地なのか、返事をする気力すら残っていないのか、それは分からない。分からないが、反応などあってもなくても一緒なのは間違いない。罪状を読み上げることなど形式的なものだし、この期に及んで死刑囚がすり替わっているなどありえないのだから。
 罪状確認が終わったらしく、男は一歩下がった。それを合図に、五人の兵士が一斉に銃を構える。
 そのまま――空気が止まったように誰も動かない。
 雲一つなく晴れ渡った空を、鳥が一羽啼きながら横切った。
 標的――死刑囚達は相変わらず身じろぎ一つしない。今まさに自分たちに銃口が向けられているというのに、誰一人叫びだすこともない。
 男は、自分の右頬を伝う一滴の汗の軌跡を感じていた。
 長官が幹部席の一番前で立ち上がるのが視界の隅に入った。
 用意の号令で――声は届かず、唯右手が大きく振り上げられるのだけが見える――銃を構えた兵士達が狙点を定める。
 何か悟るものがあったのだろうか、その瞬間、壁に磔られた者達の躰が初めて動いた。自由になる部分など皆無に等しい中で、あるものは首を振り、あるものは僅かに胸を反らせるような仕草をみせたのだ。
 だが――その人間らしい反応が終わるよりも先に、彼らの躰が不自然に跳ねた。跳ねて、仰け反り、その次の瞬間にはもう、肉の塊と化して壁に寄りかかっている。ずるずると頽れてしまわなかったのは、偏に、彼らの躰が一分の隙もないほどきつく戒められていたからにすぎない。そのかわり――肉塊の周りが、その先の地面が、塗料をぶちまけたかのような薄っぺらい赤色に染まっていた。
「え」
 男の唇から、間の抜けた声が零れた。撃て、の号令も響いたはずの銃声も、全く聞こえなかった。気付いたときにはもう、死刑囚達は死体になっていた。
 それだけだった。
「おい? 何やってんだよ、お前? また貧血か? こんなとこで倒れるんじゃないぞ、みっともないんだから」
 声と同時に引っ張られ、男は蹌踉けた。
「まったく、何回呼ばせりゃ気が済むんだ」
 苛々とした言葉から察するに、男はしばらく我を失っていたらしい。辺りを見回すと、なるほど、あれだけ群がっていた見物人は閑散としており、塗料のようだと思った血は、砂の上で半ば乾きかけている。遺体は、とっくの昔に何処かへ運ばれて見あたらなかった。
「悪い・・・・」
 眩暈の残る頭を振って、男は小さく呟いた。
「しっかりしてくれよ、頼むから」
 同僚は何やら文句を言いつつ帽子をとって頭をかいた。
「それにしてもよ、あいつら、一発で仕留めたんだぜ。まぁ、あんだけ的がでかくて動かなけりゃ、誰でも当たるだろうけどよ」
 あいつら――それが誰を指すのか、男はぼぅっとした頭で暫く考え込んだ。思い当たったのは――狙撃をした兵士達。
 襟の形と印で階級や所属を表す軍服の中でも、特に目立っていた彼らは、銃器の扱いだけでなく各種の機器や諜報活動にも長けた特殊部隊だった。普段は幹部達の護衛を務めている彼らは、どの部署からも独立した長官直属の部隊だという噂さえある。兵士としての出世の頂点の一つの形でもある。
「俺だって出来るさ」
 男はそう返した。
 だが――自分の言葉に首を傾げてしまう。
 本当に、出来るというのだろうか。
 射撃の成績は中の上あたり、可もなく不可もなくといったところで、人ほどの大きさの物ならば――それも十歩と離れていない至近距離ならば――まず、外しはしないだろう。
 外すことはない――けれど、間違いなく急所に当て、一発の銃弾で相手を即死させることが出来るかどうかは――別問題である。
 男は、すでに乾いて黒く染みた地面を見やって、こみ上げてくる吐き気にかろうじて耐えた。
「俺にだって出来る」
 翳り始めた空に、鳶が舞っていた。

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