闇に響く銃声 2

   光に惹かれて寄ってくる羽虫たちが、硝子面に当たってはじき返される鈍い音が延々と続く。
 灯りを絞った電球の下、男は呻き声を上げた。
 寝台の上に起きあがり、汗でぐっしょりと湿った髪を乱暴に掻き上げる。
 眠れなかった。
 何度も何度も同じ夢を見て、目が覚めてしまうのだ。
 昼間見たあの、光景。それが何度も繰り返される。
 ただし――銃を構えているのは、男自身だった。冷静に弾丸を込め、死刑囚の胸に照準を合わせ、瞬き一つせずに引き金を引く――。
 的――死刑囚は決まって、匂いも何もない、のっぺりした嘘のように赤い血を、音もなくだらだらと流す。血潮を吹き上げるのでもない。唯、胸から流れ出た血は、軍服を染め、その勢いを緩めることなく地面を這い、やがて男の視界一杯に広がるのだ。
 現実感などまるでない映像。だからこそ気味が悪かった。
 男は起きあがった寝台の上で、こみ上げてくる吐き気を必死で嚥下した。酸味のある液体が、喉の奥で音を立てた。
 水を欲して寝台から這い出し、直ぐ脇の小机の上をまさぐった。水差しを求める指先が、別の固いモノに触れる。
 黒い塊は床の上で一度跳ねて、鈍い音を立てた。机の上から簡単に押し出されたそれは、男が常時携帯を許されている拳銃だった。
 徴兵の期間を終えた後も軍への残留を希望した者達は、他の者よりも少しだけ優遇される。一人部屋と、拳銃。それが優遇の証だ。
 男は殆ど反射的に、拳銃を拾い上げようと腕を伸ばした。寝台の下に入り込んでしまった銃身を、手探りで探す。馴染みのある重さが指先に触れ、男は小さく息を吐いた。
 男は手馴れた仕草で、不備がないかを確認する。流れるような手付きは、五年の間に呼吸するのと同じように躰に染みついたものだ。
 羽虫の体当たりを受けた電球が大きく円を描いて揺れた。ありとあらゆるモノの影が、右に左に伸び縮みする。
『銃口を他人に向けるな。引き金を引く前に、自分と周囲の安全を確認しろ』
 射撃の訓練の度に繰り返し聞かされてきた教官の声。
『扱いさえ間違わなければ危険はない』
 嘘――それは、嘘ではないのか。
 男の脳裏をそんな疑問がよぎった。
 拳銃とは人間を殺す道具、その扱い方はすなわち、人間の殺し方であるのでは―― 。
「俺は――」
 男は肩を震わせ、両腕で己の躰をかき抱く。恐怖という名の氷の触手が、躰中を這い回っている。
 ――別に、これといって就きたい職業などなかった。かといって、兄や姉のように両親と同じく農業に日々の糧を求める気にもなれなかった。だから――、訓練を受けるだけで毎月給料を貰える軍隊は、ひどく居心地が良かったのだ。
 けれど、今まで起こらなかったからといってこれから先も戦争が起こらないという保証はどこにもない。銃口を誰かに向けて引き金を引かなければならなくなるようなことが、無いとは言い切れない。
 どうして気付かなかったのだろう。どんなに綺麗な御題目を並べたとしても、拳銃は拳銃でしかないことに!
「俺は・・・・」
 男の躰がなお一層小刻みに震え始めた。冷たい汗が、耳の後ろから顎先を伝って軍服に弾かれる。
 恐怖からではない。全身を満たしてなお余りある、吐き気のする程の嫌悪、憎悪からであった。
 もう一秒だって、こんなところにいてたまるものか!
 唇を引き結んで勢い良く立ちあがった男は、一瞬後、糸が切れたあやつり人形のように、もとの寝台の上に座り込むより他無かった。
 居たくないからといって、はいさようならと簡単に辞められるなら、苦労はない。一体何と言って辞めると言うのだ。
 男の脳裏に、昼間の光景がまざまざと甦った。
 銃声――硝煙――流血――。
 あの時は、スクリーンに映し出された映画のように現実味のない映像だった。だが、男の耳は確かに銃声の残響を捉えていたし、どこか甘い火薬の香りと赤錆びた鉄を思わせる血臭はまだ鼻の奥に残っている。
 瞬きと同時に男は呻いた。
 膝と言わず手と言わず、震え出すのを自分の意思で止めることが出来ない。
 もしも、除隊を申し出たとしたら、上官は何と思うだろう。
 今日の公開処刑に怖気づいたと思われるのだろうか?
 それならそれで構わない。けれど、もし。
 もし、それが、後ろめたいことを抱えているからだと疑われてしまったら・・・・?
 疑われること、それは軍隊の中では有罪と同義である。疑わしきをすべて罰してこそ不安の種がなくなるというのが、お偉方の方針なのだ。
 生命活動の全てを完全に止めた屍体の顔が、恐怖に醜く歪んだ自分自身のぞれとすり替わった。
「う・・・・、うわあぁぁああぁあっっっ!」
 血塗れの自分の顔が嘲笑する。真っ赤に染まった唇が緩慢に動く。

 逃ゲテ、シマエ。逃ゲナイト、殺サレルゾ。俺ノヨウニ!

「逃げて、しまえ・・・・」
 呟いた言葉は、男自身の意思であったのだろうか、それとも、そうと錯覚した自分の内の幻覚の誘惑であったろうか。
 ぞれすらはっきりしないまま、男は右手の中の拳銃をきつくきつく握り締めた。
 起床を促す低い金属音が、朝の到来を告げる――。

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